とんかつ冨貴
~秋葉原にあった母の味~


 秋葉原はとても新陳代謝の早い街である。特に飲食店は気が付かないうちに新店舗がオープンし、気が付いた頃には馴染みの店が跡形もなく消えていたりする。さらに今は群雄割拠の戦国時代の様相である。そんな秋葉原に昭和を色濃く残す心温まる店があった。秋葉原の奇跡、とんかつ冨貴の物語。

■ D・A・T・A ■
名  称 冨貴(ふき・ふうき)
住  所 東京都千代田区外神田3丁目11-11
構  造 木造2階建(昭和29年)1954年頃に建築
営業期間 (昭和39年)1964年~(平成28年)2016年9月28日(水)


■まずはお料理から■

 冨貴は、とんかつをメインとした揚げ物を提供していた。歴史を先に書きたいところだが、やはり此処はお食事に訪れる場所である。多くの人を魅了した美味しい料理から紹介したい。
入店すると4人分のカウンター席と4人席のテーブルが二つ。店員は12人だ。混んでる時は確実に相席になる。メニューから好きなものを選んで店員さんにお伝えする。昭和30年代から続くお店だけに呼び出しボタンなど無い。そこにあるのは「昭和の料理屋」そのもの。
注文を終えると夏場は主に麦茶・冬場は焙じ茶などのお茶とお新香が提供されるので後は料理が出るまで待つだけだ。

メインディッシュは次の通り。一番人気の「ロースかつ」はとにかく注文する人が多い。 秋から春にかけての期間限定な「カキフライ」こちらは提供開始が秋葉原のニュースになるほどの人気。宮城県産や広島県産の牡蠣を使用していた。大きくてジューシーな牡蠣がホクホクに揚り普段は牡蠣が苦手な人も食べられたなど、エピソードも多かった。「クリームコロッケ」こちらは手作りの逸品で自宅でじっくりと時間をかけて仕込む必要があるとの事。一つの粒が大きくて柔らかく個性的なメニューだけに冨貴ではこれしか注文しない常連客も居たほど。






ロース

カキフライ

クリームコロッケ

とんかつ用の肉を使ったとても肉厚な「しょうが焼き」ソースは自宅で仕込んでくるらしい。玉ねぎやピーマンとお肉がしょうがのソースとハーモニーを奏でて美味しい。 肉厚でとても柔らかい「魚フライ」は冨貴では最も安いメニューの一つだが非常にお得な存在。 他には上級な肉を使った上ロースかつ・ひれかつ・上ひれかつ・海老フライ・串かつ・盛り合わせフライ・いかフライ。前述したが、定食はお新香・豚汁・ご飯・お茶がセットになる。細かい事だが豚汁とご飯は料理よりも後、一番最後に提供される。この順番は決まっていた。そして漬物や豚汁も美味しいのだ。絶妙な漬け具合のキュウリや大根のお新香。たくさんの具が入り塩味が効いた豚汁が甘いとんかつやしょうが焼きなどの揚げ物に合う。どの食品もひとつひとう手間を惜しまず時間をかけて作られてるのが実感できる味だった。


しょうが焼き

魚フライ

上ロース

■冨貴の誕生前夜■

 冨貴は昭和39年(1964年)の東京オリンピックがあった年に始まったそうだ。何度も昔の話を聞いた。姉妹二人で約50年もの長い間、切り盛りしてきた昭和のお店である。閉店する時に長女の方が「ここは昔は畳屋があったのよ」と、開店したときの事を詳しく教えてくれた。実は畳屋の建物をそのまま使用してるのだそうだ。 確かに店内や建物の造りを観察するとその片鱗が見えてくる。調理場と食事をする場所は畳を作る場所だったと容易に想像できるし、奥の居間は家人が食事をしたり休息する場だった。一番奥に流し台やトイレがあるのが証拠である。そして2階は寝室だろう。
どうやらこの場所は、昭和28年頃までは空襲で焼けてから空き地だったようだ。その頃はこの区画に菓子屋・鋼管販売の営業所・電池関連の業務をしてる建物・自動車関連の建物など。となりのニッピン(日本用品)は既に営業していたから老舗だ。そして昭和29年頃に青木畳店として木造2階で建設される。それから10年後にとんかつ冨貴に変わるのである。


■母から姉妹へ■

 冨貴の姉妹は幾度となく話して聞かせてくれたのだが、田代町(外神田4丁目)の生まれで家は電気関連の会社だった。広い敷地にあった倉庫には電線などが大量に在庫され夏でも涼しかったとか。小学校は芳林小学校(昌平小学校)、中学校は錬成中学校(アーツ千代田 3331)、その後は上野の学校へ行き、挙式は神田明神で挙げたそうだ。 ちゃきちゃきの神田っ子…というか真の秋葉原っ子だそうだ。「冨貴」という店名は姉妹の母の名前だそうで、この店を二人に託したのも母だったとよく話していた。非常に聡明な方だったそうで、それは激変に次ぐ激変の秋葉原の中で50年以上も変わらず多く人に愛され続けた店を始めた事。その事実が何よりの証拠だと思う。 姉妹のお二人は町内や神田明神の事にも非常に詳しいが、驚くのは秋葉原での知名度だ。例えばラジオセンター内の60~70代の方に聞くと「ああ、冨貴ね。昔はよく行ったよ。最近は油ものが辛くて行ってないけれど、まだやってるのかな」とか、秋葉原を何度か移転しながら営業してる有名なスピーカー店では「冨貴ね知ってるよ、まだやってるのかな。よくお昼にお弁当を作ってもらいに行ったなぁ」などなど。 インターネットやSNSで情報があっという間に拡散される世代の人だけでなく、本当に昔から秋葉原の人々に親しまれ記憶に残ってる店なのだ。





■笑顔の店■

 お店がスタートした昭和39年から平成元年までは、冨貴も神田青果市場と共にあった。朝早くから米炊きやキャベツを切るなど色々な仕込みをして、日中はとんかつ屋だが夕方から夜は飲み屋として酒をメインに提供してる時期もあったそうだ。商売相手は電気街の商人のほか、市場の関係者も多かったとか。 ちなみに平成元年の営業時間は11:00~16:00で日曜日は定休日だった。 30年近く前に来店した人のレビューでは非常に愛想が良かったとある。 姉妹の雰囲気はずっと変わらないのだ。

久しぶりに冨貴に入ると「あらまぁお久しぶり。元気にしてた?どこでも空いてる所に座って」と姉妹がニコッと笑顔で出迎えてくれる。 何度か通い続けてると「あなた何年?(干支を聞いてる)名前は?」と聞かれる。答えるとたいがい「まだまだ若いわねぇ」と言う会話に。そして次からは「あら久しぶり〇〇ちゃん元気してた?」という風になるのである。すごく昭和っぽい。でもそれが良いすごく良い。

 例えば寒さも辛くなる冬、カウンター席に座るとすぐに妹さんが熱いお茶とお新香を用意してくれる。定番のロースかつ定食を注文して待つ。小さな湯飲みのお茶が無くなると、まるで母親か祖母のようにもっと飲む?と継ぎ足してくれる。 冨貴はテレビを置いてない。油のパチパチという音や食器の音、入口から少し聞こえる秋葉原の喧騒がBGMである。 子供の頃、特にする事もなく母の作る昼ご飯を待った時間を思い出してほしい。そのゆっくりとした贅沢な時の流れが、大都会秋葉原の中心部にあったのだ。 料理が出来上がりお皿が目の前に置かれると、あれ?何か1個多い。注文したのはロースかつ定食のはずだ。そう、今が旬のカキフライが1つ乗っている。 長女の顔を見るとニコッと「サービスしといたわよ」って無言の笑顔をしている。こちらも「ありがとう」と笑顔で返事をする…。ご飯が減ってくると「おかわりする?若いんだから沢山食べなきゃ!」冨貴のご飯は少し大盛りなので、だいたいお腹いっぱいだが遠慮なく勧めてくる。そう祖母の家に行ってご馳走になった時のアレそのものだ。すべて食べ終わり店を出る時には笑顔で「また来てね。」と送り出される。…だからまた冨貴へ行ってしまうのだ。繰り返すが、そんな人情のある場所が平成も終わりに近づく日本の中心部、千代田区の電気街秋葉原にあったのだ━━。


志野焼の食器(筆者所有)

定食メニュー(筆者所有)

招き猫(けけえす氏所有)


■閉店へ■

 冨貴でお食事をしていると、若い20歳くらいの人が「ご馳走さま」と言って出ていく。「あの子、小学生の時から来てるのよ」━━ここは本当に常連さんの多い店だ。 ある日、隣の席の人が食事を終えて帰るころ「僕、今度結婚するんです、報告したくて来ました。」ちょっと驚くような瞬間である。 何か良い事があった時に想いを伝えたくなる人、場所がそこにあった。 冨貴は人生を共にした常連さんが数え切れないくらい居た店。

姉妹も高齢化し、店の営業時間も短縮していたので閉店のニュースが入った事に驚きは小さかった。けれど、残念な気持ちは他の大勢の冨貴ファンと同じく強かった。秋葉原を電気街として考えると買い物が主な行為である。買った物は手元に残り、それが思い出になる。けれど、飲食店は食べ物の“味”というその瞬間しが経験できないものだ。後から再現は出来ない。冨貴の姉妹はいつも言っていた「私たちは来てくれるみんなの秋葉原の母なのよ」と。

美味しいお料理でお腹がいっぱいになるだけでなく、心も温まるお店。冨貴は秋葉原の奇跡だったと思う。
お店は閉店して秋葉原も変わっていくけれど、これからも姉妹のお二人にはいつまでも元気でいてほしい。










■おすすめリンク■

ちょび&姉ちゃんの『アキバでごはん食べたいな。』 「とんかつ 冨貴」編
可愛らしく美味しそうなイラストで食べ物屋さんの雰囲気が伝わるコミック。
冨貴の回も素晴らしいです。

けけえす (@kks_jp) | Twitter
冨貴で店員も経験された「けけえす」さんのアカウント。
検索するとこのページよりも多くのメニューの写真が美味しそうに掲載されている。
文中に登場した冨貴が創業した時からある招き猫も所有されている。